イタリアで感じた「わかった」時、「わからない」時
今年の夏、次女がお世話になったイタリア人家族へ会いに、イタリアへ行ってきた。フランスへ高校留学に行ったことがある長女と私の3人で。
イタリア語を特に準備していったわけではなかったけど、ホストのいうことは何となく全体で分かる!そんな自分に驚いた。ヒッポの音源やメンバーの口から聴いたイタリア語と重なるともっとわかる!聞いたことのある音はそのシチュエーションと重なると、ただの音だけだったものに景色がついて意味を持って働き、生きたことばになりすぐ覚えられる。私も言いたいことをイタリア語で少しずつ返せることが増えていった。
ところが、違う日には今日はあんまり言っていることがわからないなあと感じることも。なんでだろう?
イタリア語がわかる娘がいるから困ったら頼ってしまうから?
別の日には、去年知り合ったイタリア人にも会いに行った。彼は他に英語とフランス語が話せる。3言語がその場によって変化して面白かった。なんだか全体でわかる!と感じるときと、全体像が見えてこないときもあった。なんでだろう?
フランス語ができる娘に頼ってしまうから?
また別の日には、ガリレオも教鞭をとっていたパドバ大学の英語ガイドツアーにも参加してみた。アメリカ人学生の英語ツアーだった。まだまだ聞き取りに苦手意識がある私だったけど、「おお!説明していることが全部わかる!嬉しい!」という瞬間と、「あれ、何を言っているのかよくわからないや。」という場面があった。
この体験は何だったんだろう?
帰国して気づいたこと
充実のイタリア旅行から帰国し、久しぶりに多言語が聞こえる家に帰ってきた。
ヒッポでは、週1回以上の定例会(ファミリー)参加・国際交流のほかに、家の中で何台もスピーカーを置いて、自然に多言語が聞こえる環境を普段から作っている。わが家も至る所にスピーカーを置いていた。
それは、ちょうど外国の空港にいるときのような感じが近い。耳を澄ませば○○語があちこちから聞こえる。だけど、目の前の人との会話を普通にしたり、スマホに集中していると音は気にならない。多言語がBGMのように自然に流れている感じ。
この環境では、私は多言語を深く意味を追って聞いてはいない。リラックスして全体に漂っているだけ。この単語はなんだろうなんてほぼ思わない。ただ、メンバーが定例会で話していたことばやホームステイ交流でよく聞いたことばが重なるとポーンと耳に飛び込んでくるときがある。そんな感じだ。
今思えば、イタリアで「今日は全然相手の言っていることがわからない」と感じた時は、1つの単語に引っ掛かり出したら、これってなに?と流れがせき止められて全体を捉えられなかったからだと思う。
反対に、「今日はわかる」って思ったときは、家にいるときや多言語でメンバーの話を聴くときのように想像して、相手の伝えたい全体を捉えることができていたのだと思う。わからなくても間違っていてもいい環境だからだ。
学生時代の英語学習とは違う、ヒッポの「環境」!
高校時代リスニングが大嫌いだった私は、当時1つ1つの単語に引っ掛かり、全体から意味を捉えることができなくて結局何を言っているのかわからなかった。
そんな私が大人になって、ヒッポの環境に出会って、いつの間にか多言語を全体で捉えられるようにもなってきている。
英語の学習期間は10年もあったのに、聞き取りも話すことも大嫌いだった私。
ヒッポを始めて14年。今では多言語でまるっと全体が捉えられて、ことばと相手に興味を持って簡単なコミュニケーションもとれるようになってきている。
「人間は環境さえあれば誰でも何語でも話せるようになる。」
多言語の環境をつくって、仲間と人と交流していくうちに多言語人間に日々近づけている自分に気づいた。
(愛媛県・Tさん)